瀬戸内の旅へ。
朝,7時頃に出発。山陽道で、車は西へ、瀬戸内海を見て広島方面への小旅行。
幕末、禁門の変が、きっかけの幕長戦争では、長州との交渉場所が、このあたりでした。吉田松陰門下
の高杉晋作らの身命をなげうった回天の活躍から、陰で土佐の坂本竜馬などが大きく活躍し大政奉還へと
近代日本の礎が築かれていく。
「金も名も命も要らぬという人は始末に困るが、そんな人でなければ天下の偉業はならぬ」と山岡鉄舟に
言わしめた薩摩の西郷隆盛も瀬戸内を船で京に向かっている。この辺、真に国をおもう人々の血と汗で、
翻弄されながらも新しい歴史をつくりだした往来なのだ。そんな事を思いながらのドライブ。
港町、尾道と船の文化。
尾道、千光寺公園に着く。真言宗の寺で今は赤堂と呼ばれる朱塗りの本堂は丁度、補修中だった。
そぞろ歩くと、鐘楼があり見晴らしがよい。
「文学のこみち」という小道を下る。道の脇に正岡子規、林芙美子、松尾芭蕉など尾道ゆかりの文人墨客の
句や文章が大きな石や岩に刻まれている。木々に覆われた静かで落ち着いた気持ちになれる小道だ。
約1キロの遊歩道には、叩くと鼓のような音のする「ポンポン岩」もあり、登ったり下ったりの道で汗が額
ににじむ、海が近くに来ていて、しまなみ海道に架かる橋や島、近く天寧寺の五重塔がみえる。
瀬戸内は奈良平安の頃から交通の要衝だが、積み荷を狙う海賊に手を焼いていた。
これを追捕し瀬戸内海を支配したのが平家。清盛の死後、壇ノ浦で源氏に敗れるが、勝利に導いたのが
伊予水軍だ、この中から芸予諸島を根拠地とする村上水軍が台頭する。新勢力の毛利元就は村上水軍の
支援を得て厳島神社に陶氏を破り、西国の覇者になる。
その後、関ヶ原の合戦で敗れるまで山陽は日本の表舞台であった。尾道もその港町として栄えたのであろう。
その船の文化が明治維新に力を発揮していく。
戊辰戦争で会津白虎隊も越後長岡藩の河井継之助も侍の魂を守りつつ船の機動力に敗れ去っていく、
日本はその後、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り列強に参入していくのだ。
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